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硝子の羽根の欠片

なのはに最近熱を入れている二次創作SSサイト。
オタクとか百合とかに興味がない方は見ない方が吉。
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「ふむ、やはり体の自由が効かないというのは不便で不愉快だな」
 アーチャーは腕を伸ばして左右に倒し調子を見る。屈伸をして足の調子を確認。
「でも、案外あっさり退いてったわね」
 たんたんと凛は足下を軽く叩く。消えていった触手の行き先が気にかかったのだろう。アーチャーの無事は案ずるまでもないと思っているのか、アーチャーを気遣う素振りはまったくない。
「そうだな……」
「まぁこれでボスも動き出すってものでしょ」
 にやりと、凛は笑みを浮かべた。
「は?」
 アーチャーは凛が浮かべた笑みを見て背筋に寒気がした。サーヴァントなのになんということだ、と自分で自分を失望するが、心のどこかで凛が相手ならば仕方ないと諦めている自分の声もわかっていた。
「貴方を狙っていたから捕獲されたんじゃないの? 近くにわたしがいても触手は私を狙わなかったし。その貴方が逃れたら次の手段に出てくるというものでしょ。逃げたなんてすぐわかるだろうし」
 触手は消えた。それは主の元へと帰ったということだと凛は推測している。主がそう指示していたのか、自ら危機を感じて退いたのか、どちらにせよ主に伝わることだろう。
「なるほど、ただ何もわからぬまま待っているよりも、攻められることに対処してここから逃れよう、ということかね?」
「わたしとしては自分が戻れて、かつ家の薄靄が消えて空気が戻ればそれでいいわ」
 ふんっと憤慨を露わに凛は切り捨てる。
 君らしい、とアーチャーは笑った。
「しかし、何故君の家にここへのゲートがあったんだろうな?」
「さぁ? それならなんで本来の場所に戻る貴方がここに来たのか、も謎よね」
「うむ、他のサーヴァントはいないようだしな」
 アーチャーは周りを見回す。
「アーチャーが言うならそうなんでしょうね」
 アーチャーの目がいいことのみならず、サーヴァントはサーヴァントを知覚できる。いるなら何かしら感じることがあるはずだ。
「消滅する時に何か妨害が入った……んでしょうね。それもアーチャーだけを狙って」
「どこかに飛ばされた……か」
「それも、飛ばす先が狙った場所になるように……」
 互いに真剣な顔を見合わせて分析を広げる。
「喚ばれて、本体が来て、終わればここでは消滅して本来の場所に戻るのよね……」
「ああ、そうだが?」
「……貴方たち英霊の本体がある場所って、時間軸を超越してるのよね。それは貴方たち自身にも言えることよね?」
「ああ、そのために人間などには干渉できない。サーヴァントは同じサーヴァントにしか傷つけられないことと同じことだ」
「人間じゃなくても簡単には出来ないわね……。なるほどね、なんとなく推論だけなら立てられるってところかしら」
 アーチャーがむ? と不思議そうに凛を見る。
「何か説があるのかね?」
「まぁ、わたしの知識と想像力による現実的でない推論なら」
「気にすることはない、私だって英霊システムの厳密な理屈など知らん。以前人から聞いたこと以外は。聞いたことが正しいという保証もない」
 ふんっと言い捨てるそれば、凛の推論を聞かせろという暗なる要求。
「まぁ簡単よ。戻る貴方の通る道をねじ曲げればいいのよ。別の場所として事前にここを作っておいたら、あとは道を変えればいいんじゃない?」
「だから、どう道を変えたのかね?」
「そんなこと知らないわよ」
「は?」
 あの不遜な弓兵の目が丸まり顔の筋肉が硬直する。
「手段なんか考えてないわよ、そんなの知っても何になるわけじゃないし」
「じゃあ何に目処をつけたのかね?」
「うちの地下室とここが繋がっていたことよ。うちの地下室は貴方が最後にこちらの世界に喚ばれた場所よね? おそらく極わずかに貴方がいる本来の場所と繋がった道――まぁサーヴァントとしてこっちの世界に来るための道だけど、人にはわからないその痕跡があって、そこと本来の場所の道をねじ曲げてここに繋げたんじゃないかしら? そしてその道を戻る貴方が通るようにすればいい、もしくは同じ道を通って戻るものなのかも
「喚ばれたのは居間だったが」
 アーチャーの言葉に凛が顔を真っ赤にして怒鳴りあげる。
「召還の儀式自体は地下室だったのよ! 貴方が出てきた場所が居間だっただけ!!」
 凛の迫力に押され、アーチャーはいつもの皮肉を言うことさえできない。
「そ、そうだったか……」
 アーチャーが控えめであるのは別に喚ばれたサーヴァントと喚んだマスターであったからではなく、純粋に凛の怒りが本格的に自分へと向けられるのを恐れたからに他ならない。
「まぁ、薄靄も希薄になってきたし……そろそろかしらね?」
 凛は周囲を眺める。あれほど漂っていた薄靄はずいぶん量と数を減らしていた。
「む、……そういえば濃度が薄いな……違うモノが混じってきているが」
 臭いをかぐかのように鼻を軽く上げて表情を戦いのそれに変える。
「ボスが出てくるかはともかく、あちらさんが何かしらの行動に出てきたってことよね」
「厄介なものでなければよいが」
 やれやれとばかりにアーチャーは目を伏せて腕を組む。
「このこと自体が厄介でしょ。わたしは明らかに巻き込まれただけだもの」
 憤慨という様相の凛はアーチャーに冷たい目を向ける。
「そう言われてもな、私のせいではない」
「じゃあなんでこんなとこ連れてこられてるのよ? 貴方に恨みがあるとかじゃないの?」
 凛の人差し指がまっすぐアーチャーの鼻を指す。
 ふむ、とアーチャーは組んだ腕の片方を離し顎に手を添える。
「英雄というものは誰であれ必ず誰かに恨まれものだよ」
「つまりは貴方のせいってことね」
 アーチャーの答えが気に入らなかった凛はアーチャーの自己弁護らしき言葉を黙殺した。
 気まずくてアーチャーは腕を組んだ姿勢で顔を凛から背ける。
「ほら、現実から目を背けてる場合じゃないわよ。ようやくお出ましのようね」
「む……」
 アーチャーが不穏な気配の方へと腕を解いて向き直る。黒い大きな影が宙にある。
「ずいぶん出待ちが長いわね……、ボスかしら?」
「だろうな、あれは聖杯だ。どうやら君の推測は間違っている面もありつつ正しいようだ」
 言いながら凛を庇うように凛の前に立つアーチャー。その発言に凛は怪訝な表情でいた。
「は? 聖杯?」
「ああ、冬木の聖杯だ」

 澱んだ空気、吐き気がするような忌々しい臭い。宙に浮かぶ黒い孔、ただれるようにそこから流れ出ている黒い重油のような粘液。
 異質、異常さで言えばこれほどおぞましいものもあるまい。圧迫するようなどす黒い空気の浸食は離れている凛にも影響を与える。
「な、何よこれ……。士郎から話は聞いたけど、ここまで酷い呪いだなんて……」
 孔の中から出てくる、孔の中にある全ての黒いものが視覚できる呪いだ。その密度は古今東西どのものでも類を見ない。
 黒の他には赤の色。やつがこれまで吸ってきた血であるのか、黒い汚濁に混じる赤は人の死が混じっているのか。
 聖杯というにはあまりに歪すぎる存在。杯が孔であるということのみならず、なんでもできるはずの力はただ呪い・殺すことを持ってして全てをなくす。
 そんなものが目の前に出てきて、凛は驚く他なかった。
 伸びてくる黒い触手も汚泥が形成するもの。ここまで濃い魔力を凛は見たことがなかったし、ここまで負に染まりきった魔力も見たことがなかった。
「ちょっとちょっと……こんなのどうするのよ……?」
 肌や魂で感じる圧倒的な純然たる負の魔力。それを自分の力で退けられるという気がしなかった。呑まれるかもしれない、そう感情が言った。
「どうにかせねばなるまい。なに、心配することはない。君と私が一緒にいて負けるはずがなかろう」
 力が芯にある声。凛はここで改めてこの相棒が自分の目の前にいると気づいた。聖杯を見た瞬間に意識から欠けていたアーチャーを改めて認識したことで、ようやく平静を取り戻すことができた。
 そうだ、いつもこの赤い騎士がどんな窮地も活路を切り開いた。“死”を命じたバーサーカー戦で彼は帰らなかったが、凛たちがバーサーカーを倒せたのは他ならぬこの騎士がその前に戦っていてくれたからだ。そして今この時も、彼はきっと活路を切り開いてくれることだろう。
 準備運動でもするかのように、触手たちはまだ距離を保ったままうねうねと動いている。
「貴方……よくこれが冬木の聖杯ってわかったわね」
「過去の因縁というやつさ」
 短いやり取り。それで気を落ち着ける。いつもの会話、それはいつもの自分たちであるはずだ。
「ふぅん……。まぁいいわ、何か対処法とか知らないの?」
「さぁね……。役に立つかわからんが、君に忠告を。あの孔から出てくる触手よりも、中にある『この世全ての悪』の方が厄介なのだ。孔を塞げればそれでいいのかもしれんが」
「『この世全ての悪』……?」
 凛には聞き覚えのない単語。一度体験しただけではわからなかった聖杯戦争の子細を、凛は今改めて突きつけられている。
「この世の全ての原罪、ありとあらゆる呪いの固まりのようなものか。簡単にはあの触手の何倍も濃い塊だ。もっとも、全て本来より濃度が薄いが」
「はぁ?」
 肌が感じる異様な濃度の負の魔力。それ全てが薄いということが凛には信じられない。これで多くの災厄をもたらすことが出来てしまうだろう。
「本来は聖杯の器があって誰かが召還せねばならないのだがな。まして、冬木の聖杯は壊された……はずだな?」
「ええ、士郎とセイバーが壊したって聞いたわ」
 あるはずのないものが目の前にある。それも好戦的だ。2人ともうんざりするが、戦わないわけにはいかない。
「まして壊すだけの聖杯に、こんな空間を作ったりここにさらってきたりするような器用なことは出来ないはずだ。何者かが一枚噛んでいるのだろうな。しかし完全な再生は出来なかったと見える」
「……はぁ。まぁいいわ、これをどうにかしないと帰れないんでしょ?」
 今も自分に迫る重い負の臭いの混じる空気に凛はうんざりしていた。語られる濃度が薄い理由も、もはやどうでもよかった。
「帰してくれるタマではないだろうな」
 アーチャーがやや緩慢な動作で両手にかの双剣、干将・莫耶を取り出す。
「あ、この莫耶は?」
「君が持っていたまえ。何があるかわからない」
 言われて莫耶を見る凛。正直使いこなしきれないだろうからと足下の床に突き刺しておく。
「濃度が薄めで助かった。これならば十分消滅させられるだろう」
 ふふっと笑うアーチャーに凛は不審の目を向ける。何故この状況で笑うのか。
「さぁマスターよ、令呪は今やないが、命令してくれたまえ」
 不意に首だけで凛を振り返る。凛を優しく見つめる眼差し。目の前にある赤く大きな背中。
 なんだか、別れのあの時、“死”を命じたあの時を思わせる。
 だけど、今は死ではなく生のためなんだ。そう自分を叱咤する。どちらともが生き延びるのだ。待つのは再度の別れでも、アーチャーはまた消滅するだけだとしても。
「あの不気味なもの、徹底的に壊しちゃいなさい」
 ふんっと言い捨てる。それはいつものように、バーサーカーを前に命じたあの時とは違う、いつもの表情を凛は浮かべていた。くだらない、だから壊せと言った。
「承知した、マスター」
 アーチャーは応えて前に向き直る。前へと、敵へと駆け出すそれは騎士のもの。
 凛もただ眺めているだけのつもりはない。右手を人差し指と親指以外握り込み、左手を下に添えて狙いを定める。これはシングルアクションでありながらいいダメージを与えられるので凛は愛用している。呪いに呪いが効くかどうかという不安もないではないが、だらだらとした触手と弾であるならば、弾が一時的とはいえはじくことができるのではないかと考える。
 迫るアーチャーに触手はしっかりわかっているのか正面からぶつかっていく。ふん、と軽い調子でアーチャーは触手を切り裂いていく。
 この世全ての悪からにじみ出た呪いが、こうも簡単に斬れていいのかと思ってしまう。簡単に見えるが斬れる時には何かが焦げるような音が響く。触手のみならず武器の方も無事ではないようだ。斬った時に煙りが出たかと思えば、干将と莫耶のどちらもが表面を削っている。
「醜悪ね」
 触手への感想と共にガンドを当てる。触手は当たった箇所だけはじけ全体はうねうねと蠢いている。
「効かないよりはマシって程度ね……」
 予想していたとはいえ望ましくない展開に半目で触手を睨む。やはり本格的に相手をするなら宝石を出さなければならないだろう。左手をポケットに、中に入っている宝石の1つを中で握りしめる。目の前の弓兵がどこまでやってくれるか、それを見てから使うか決めることにする。
 アーチャーはすいすいとまではいかないものの、順調に距離を縮めていく。幾度か干将と莫耶を新しく取り出して道を切り開き、聖杯へと近づく。
 凛もアーチャーに迫る触手や自分に近づく触手の牽制とばかりにガンドを乱射。
「凛、一時的に触手全体を抑えることは出来るか?」
 触手蠢きガンド打ち乱れ焼ける音のする戦場でアーチャーは声を飛ばした。
「やれなくはないけど、どうする気?」
「上から孔の中へ攻撃するのだよ」
「はいはい、まぁやってあげるわ。ヘマしないでね」
「当たり前だ」
 凛は手探りで左手にもう2つ宝石を握る。3つもあれば大丈夫だろう。取り出して詠唱に入る。
 アーチャーが一歩大きく前に跳ねる。触手を手早く捌くと声を上げる。
「凛!」
 言いながら干将・莫耶を周囲に投げ、上へと高く飛び上がる。触手がその後を追うように上へと伸びる。
 凛の左手から光がほとばしり正面へと幾筋も伸びていく。触手は光に圧倒され、そのほとんどを焼かれた。アーチャーを狙うものはない。
 アーチャーは手に独自の弓と螺旋剣を取り出し、つがえて孔の中へと放つ。
 凛は孔の中から大きな炎が上がっているのが見えた。中にあるという呪いの塊が一瞬で燃え上がっているのだろう。
 着地したアーチャーは孔を見上げてふむ、と成果を確認。
「大丈夫だろう。孔は自然と閉まるはずだ」
 言って手にしていた弓が消える。戦闘は終わったということを明確に示していた。
「さすが凛だ。見事に触手を払拭してくれたな」
 凛を見つめ本当に感心した様子で褒めていた。
「当たり前じゃない。ただでさえ少ない宝石を使ったんだもの」
 ふんっと凛はそっぽを向く。振られてツインテールが揺れる。
 魔力を溜めるだけでもかなりの時間を費やすというのに、宝石自体が高額だ。しかし魔力を溜めるには純度の高い良質のものが必要。溜めた魔力よりも宝石代の方が痛い。
 しかし凛の性格からそれが照れ隠しであることなどアーチャーはわかっている。ツインテールの隙間から見えるわずかに朱に染まった頬も。
「貴方もさすがサーヴァントね。見事だったじゃない、孔への攻撃」
「うむ、何せ君のサーヴァントだからな」
 腕を組んで満足そうに言う。その満足そうな表情には上手くいった攻撃への思いか、珍しく褒めたマスターへの思いか。
「なっ……」
 思わぬ言葉の応酬に凛は目を見開いて赤面する。こほんと無理に自分のモードを切り替えて平静を装おうとする。
「相変わらずキザね」
 反論は小さくしか出てこなかった。とてもではないが調子はまだまだ改善されきっていない。
「事実を言ったまでだが?」
 凛の様子を楽しむようニヤニヤと笑いながらアーチャーは凛に止めを刺す。
 もう凛は反論を紡ぐ気力さえ失われてしまう。
「しかし、不思議なものだ。一度は失われたはずのこの身が、召還されたわけでもないのにまだあるとは」
 ちゃかそうかとも思ったのだが、アーチャーは苦しそうな表情で右手を見つめ、強く握りしめる。
「サーヴァントは受肉しているわけだもんね」
「ああ、今君と再契約すれば、もしかするとここに留まれるかもしれん。それくらい、不思議なことだ」
「あ……」
 考えたこともなかった。そう、聖杯戦争中に置いてはそのことも当たり前として念頭に置いていたけれど、終わって気が抜けていたのだろうか。そのことに思い至らなかったことよりも、気づくことがなかった自分がなんとなくイヤであった。どうしてここと家が繋がっていたのか、どのようにしてアーチャーはここに来させられたのか、そんなことばかり考えていたせいかもしれない。
「そっか……戻る前にここに来たから、そういうこともアリかもしれないのか……」
「あぁ、厳密には消滅の前だから、まだ君とのラインが確立されたままかもしれない。令呪はないが」
 戻るその時に全てがリセットされるなら、戻るその直前で違うところに飛ばされたアーチャーはまだリセットを終えていないと解釈できる。
 片手を顎に、凛は考え込む。
「でもさ」
 手を顎から離し、とても晴れやかな表情で凛はアーチャーを見上げる。
「わたし達にはそんなこといらないわよね。だって、悔やむこともやり直したいこともないもの」
 アーチャーは少し間を置いた。その間で彼が何を思ったか定かではない。
「ああ、そうだな」
 しかし凛に応えたその表情はとてもすっきりしていた。
「む……」
 アーチャーの言葉に凛が周りを見回すと、場所が遠坂邸地下室に変わっていた。
「戻ってこれたのね……」
「そのようだな。じきに私も本来の場所に戻れるだろう」
 凛は少し俯き加減で何かをためらっている。どうしたのかね、と上から問いかける声に凛は俯きをやめたが、顔を少し逸らす。
「その……再契約は必要ないけど……、もしもまたサーヴァントを召還する機会があるなら、その時はまた貴方がいいわ」
 きょとんとするアーチャーは、驚く心臓の裏で冷静に、逸らした凛の顔が赤くなっていることに気づいていた。
「セイバーでなくていいのかね?」
「確かに最強のサーヴァントのセイバーは惜しいけど、私にぴったりのサーヴァントは貴方だと思うわ」
「そうか」
 ぎこちない、照れ屋で意地っ張りの見栄っ張りが、真摯に口にしてくれた言葉をしっかりと心に刻む。本来の場所に戻る時にそれは消されてしまうけれど。
「私も君ほど信頼したマスターはいない。もし君がまたサーヴァントを召還する時があるならば、是非私を喚びたまえ」
 ぎぎぎと音がしそうなほどゆっくり顔をアーチャーに向ける凛。赤面はいくらか収まってきている。
 こういう時ばかりは、アーチャーは皮肉を言うことも嫌味を言うこともしない。だから凛も意地を張らない。
「そうね、その時はよろしく」
「ああ、君と過ごした時はとても充実していた。ありがとう、マスター」
 微笑みあい、そしてアーチャーが消えた。
 凛はきょろきょろと周りを見回す。部屋に満ちあふれていた黒い薄靄も、あちらで床に突き刺した莫耶もなにもかもない。なにもなかったとばかりに。

 凛の手元にその事件があったと証明するものは何もかもなくなった。けれど、交わした言葉だけは失われていない。それだけは奪われない。
「わたしも充実していたわ、アーチャー。朝の一杯を日課にするほどにね」
 ふふっと笑って目の前にいないアーチャーに声をかける。
 扉へ向き直って地上へと出て行く。一度も振り返ることなく。電気も切られて地下室は暗闇の静寂に戻される。
 そして、元に戻された凛の工房だけがただ眠る。過ぎ去った束の間の一時を人の記憶に任せて。


END
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