海鳴市にある、私立聖祥大学付属中学校。
そこに通う女子生徒には、実は秘密なのですが、魔法を使える少女たちがいます。
けれど、この物語は魔法を使える少女たちが主役ではありません。
主役は、魔法を使える少女たちの親友。
仲良し5人組の中で、魔法が使えないごくごく普通の女子中学生である2人のお話。
王子様に必要なものは、なにも魔法が使えるばかりではないのです。
―― それは騎士の誓いに似て
走っていた。
走っていた。
だたひたすら、息が切れて喉が渇く苦しみを、唾液を飲み下すことで無理矢理押さえ込む。
唾液自体、口内が乾いていてほとんどないも同然だったが、わずかばかりある水分を喉へと流し込んだ。
何故走っているか、なんて冷静な思考はできない。
そう、走らなければいけないと瞬間的に思い、そして走り出してしまった。
ならば、走らなければいけないのだ、多分。
肩上ほどまでの金の髪を振り乱し、少女、アリサ・バニングスは廊下を疾走していた。
「あぁっもうっ!」
苛立ちを隠さない声を上げながらも、アリサは走ることを放棄しなかった。
脳裏に焼き付いた、アリサにとって大切な親友の泣きそうな表情が、苛立ちを抱かせた。
対象は……己。
走り抜けた先にあてはない。
結局逃げるように走り出して、たどりついた先は人気のない教室だった。
既に放課後も時深く、部活動に所属する生徒がその日一日の終盤を迎えていることだろう。
身を滑り込ませ、その勢いのままドアを閉めた。閉めた音がやけに大きく響いたように感じたが、やり直せるものでもない。
うるさく感じる自分の呼吸音と鼓動を供に、アリサは奥へと進んだ。
窓際までたどり着き、背を向けてサッシにもたれた。
「バカでしょ……あたし」
片手で自分の顔を覆い、俯きながら自嘲気味に呟いた。
アリサが自分に嫌気が差すような現状を引き起こしたのは、十分ほど前のことだった。
何一つ日常から外れた要素がない……はずだった、放課後。
アリサは呼び出しを受けて、告白された。そのこと自体は日常というほどではないが、皆無ということもなかった。
目立つ容姿と自信に満ちた性格、その自信に見合う知力体力。しかし高飛車や驕りというものはなく、他者に優しく接する面や面倒見の良さもあり、非と呼べるような非が見あたらない。
一緒にいることが多い仲良し五人組は全員が全員、綺麗と言われる容姿で能力もあるが、その中でももてる側にアリサの位置づけはあった。
告白を受け、告白を受ける時は恒例となるお断りをした後のこと。
待っていると言っていたすずかを探し、校舎内を見て回った最後に、すずかの教室前に着いた時。アリサに良いことと悪いことが起った。
良かったことは、アリサはすずかを見つけた。
悪かったことは、すずかは先ほどのアリサのように告白を受けていた。
すずかもまた仲良し五人組の一人であり、容姿よし気立てよし成績よしと、これまた文句のつけようのない少女である。
その親友であるアリサはその良さを重々承知しており、告白されることがあってもおかしいことなどなかった。
それが告白の現場であると気づいたアリサは、物音を立てずその場を離れた。
どんな愛を告げる言葉が吐かれるのか、それにすずかがどう答えるのか、どちらも聞きたくなかった。
いくらすずかの友人であるとはいえ、そこまで踏み込んでいいなどとはアリサは思っていない。他人のプライバシーはある程度は守られてしかるべきだ。アリサの中でなのはとフェイトという親友二人――アリサから見れば救いようのないバカップルである――は除外されているが。
外の自販機で紅茶を買い、ゆっくり飲んで休憩する。黙々と飲み終われば、十分が過ぎていた。
さすがにあの展開がまだ続いていることはないだろうと、教室に戻った。
告白現場の時間が大体どれくらいかがわかってしまう自分に、軽く苦笑してから。
「アリサちゃん」
すずかは、教室に入ってきたアリサを見て微笑みを浮かべた。
アリサ以外にも、なのは、フェイト、はやてからも信頼が篤く、人を穏やかな気持ちにさせる才能を持っているかのようなすずかの笑顔に、アリサもまた穏やかさを胸に感じていた。
「お疲れさま」
「ありがと。待たせた?」
「ううん、本読んでたから全然」
言って、すずかは手にしていた単行本の背をアリサに見せた。
それは学校の図書室のスタンプがついたもので、先日アリサも付き添いで一緒に図書室に行った際に借りられたものだとわかった。
「でもずっと教室にいたなら寒くなかった?」
「ん、ちょっとだけ」
アリサの確認に、すずかは少し気恥ずかしそうな笑顔で答えた。
表情から、アリサは本当はちょっとではないのだろうと察した。それさえ、長い付き合いだからこそどうにかわかること。
アリサはなかなかすずかが笑顔と持ち前の優しさで上手く隠してしまう本当を、見つけられないでいた。別にすずかの言葉が嘘偽りであるはずもない。ただ、考えることなく優しさで相手に気負わせないように立ち回るすずかの、本人さえ気づかないでいるかもしれないような素があった。
中学に入り、いつも一緒にいた五人のうち三人がよく仕事でいないことが増え、二人だけの時間が増えたから、前より確信を持って気づけるようになった、という程度ではあるが。
「それならさっさと帰りましょ」
「うん」
気づいたことを指摘せず、アリサはすずかに帰宅を促す。すずかは素直に応じた。
すずかが鞄に本を大事そうにしまって立ち上がる。
ふっと、アリサは視界に既視感を感じた。
アリサの方を不思議そうに見ているすずかが、立ち上がった瞬間。
―それは、先ほどの告白を受けていたすずかの姿勢
アリサは胸にうまく言い表せない複雑な何かを抱いた。
言い表せない。それは適切な言葉がないせいでもあるし、何かが入り交じって違う何かになっているせいでもあった。
「アリサちゃん?」
不思議そうにアリサを見つめ、声をかけるすずかの声が遠く。
すずかは告白されていたことをアリサには言わず。
アリサはすずかに断りを入れて、待っていてもらった。
その差にしこりが胸でつっかえている。
――どうして言ってくれなかった……?
笑顔で、笑って優しい言葉をかけてくれて、そして何も言ってくれなかった。
告白されていたなんて、そんな内容が大事であるとは思っていない。告白にどう返事をしたかなんて、もっとどうでもいい。
話してくれていなかったこと。
自分が気づいていなかったこと。
隣で笑っているすずかが誰かに好きになられていたこと。
その思いを告げられていたこと。
それらひとつとしてなかったかのように、変わらず笑っていること。
ただひたすらに、そんな事実にショックを受けている自分。なんて……情けない。
「ねぇ、アリサちゃん?」
耳に響いたすずかが名前を呼ぶ声。
顔を近づけて心配そうにのぞきこむ表情。
夕日が差し込む教室で、すずかの前髪が光で少し透けて輝いていた。
どうしてそんなことに気づいて、どうして自分を情けないと思ったかなんて、アリサには考えられなかった。
けれど胸の中は気持ち悪いほどに何かがぐるぐる回っている。
「アリサちゃんっ」
はっと気づけば、目の前ですずかが心配そうにアリサの名を強く呼んでいた。
黄昏の中、眉を少し眉間に寄せてどこか悲しささえたたえているような表情を見て。
持っていた鞄をその場に落とし、目の前の彼女の腰に手を回し、強く自分へと引き寄せた。
「アリサ……ちゃん?」
戸惑うその瞳を見つめてその唇に自らのそれを重ねる。
「っ!?」
声にならないすずかの戸惑いさえ、遠いどこかのことのようにアリサには届いていなかった。
ただ腕の中にある熱と、唇の感触……そしてどこまでも透き通った瞳だけがアリサの感覚に引っかかることができていた。
数秒の後、唇を離したアリサを、呆然と見上げるすずかにアリサは身を翻して走り去った。
立ちつくしているすずかと、床に落とされた自分の鞄を置き去りに。
小さく、ごめんと呟いたその音を、すずかの耳に残して。
まだかろうじて夕日の光を取り入れる窓に背を向けたまま、膝を抱えて座り込んだ。
スカートが汚れるのも気にしない。膝に額をくっつけるように俯き、きつく目を閉じた。
駆けだして逃げ出してみたところで、アリサにはここから先どうするかなんて計画ができるわけもない。
仮に今日この場をいかにうまくやり過ごせたとしても、同じ学校に通う友人同士ならば、すぐにでもまた顔を合わせる時が必ず来ようというもの。
それに気づかないほど、アリサは頭が悪いわけでも、動転したままだということもなかった。
「はぁ……、あたし、何やってるのよ。バカ以外の何者でもないじゃない」
呟く己への悪態もどこか力ない。
どうしてそんなことをしたのか。そもそも何を思ったのか、何もわからない。
ただ逃げ出してきた。
すずかからも、自分の先ほどの行動からも、曖昧で謎なままの胸の気持ち悪さからも。
振動を感じ、ビクッと身を震わせて顔をあげた。
ため息と共に、ポケットからケータイを取り出す。様々な色に光るイルミネーションにまたもため息をついて、開く。
表示されているのは、つい先ほど逃げ出してきた相手の名前。けれどそれもすぐに消えて、着信ありの表示に切り替わる。
気だるそうなゆっくりとした動作で指を操り、着信ありの表示を消す。その時に再び見えた名前は、見ないようにしていた。
夕暮れの教室は暗さを増して、細い片腕で自らを抱く少女の鮮やかな金の髪さえ、鮮やかさと輝きを失っていた。
− § −
だがいつまでも教室で座り込んでいるわけにもいかない。
ずっと座り続けていたアリサだったが、最終下校時刻が迫っていることを告げる校内放送に、重い体を動かさざるをえなくなった。
居心地がいいとは言えないながらも、現実逃避の逃げ場となっているこの場所を離れるのは、少し……いやかなり気が重かった。
しかし最終下校時刻を過ぎれば、セキュリティのスイッチが入ってしまい、下手に動くだけでアラームが反応、もれなく警備員と教師からのお説教が待っている。同じ追い出されるのだとしても、今動いた方がよほどマシというものだ。気分は最悪のままだが。
アリサがしゃがみこんでいた間に、すっかり外は日が落ちていた。
照明は駆け込んだ時からつけていない。けれど慣れた教室と同じレイアウトの教室で、大体どこに何があるだろうか、おそらくはわかる。
それでも机や椅子にぶつかりそうで、アリサはケータイのライトをつけた。カメラのフラッシュ用ライトを利用した付随機能だ。まともに使ったことはない。けれど今から教室や廊下の照明をつける気にもなれなかった。
そんな機能がついていたことも、必要に迫られたからこそどうにか思い出せたほど。これでどうにか昇降口まで行けると、ほっとした。
同じ姿勢で居続けたから痛んでいる体に、少しのびをして柔らかくさせる。
放送は施錠の十分前。あんまりゆっくりしている猶予はない。なにせ、鞄はあの時放ってきてしまった。
ケータイの時計を見れば、あれから二時間は優に経過している。
いくらなんでも、すずかもあそこにはいないだろう。問題は、勢い走ってきたから、現在地を把握していないこと。
それも教室を出て回りを調べればどうにかなるだろうと踏んで、アリサはケータイのライトを頼りに教室を出た。
「あ、アリサちゃん!」
廊下に出れば、すぐ横から聞こえてきた聞き覚えのある声。
一瞬アリサの全ての動きが止まった。
ぎこちない動作で首を横に向けると、アリサ同様にケータイのライトで前を照らしているすずかがいた。
「なんでこんな時間まで残ってるのよー!?」
アリサの叫びに、すずかは困ったように笑う。
「その、アリサちゃんを追いかけようかどうしようかずっと迷って……気づいたら結構遅くなっちゃって、アリサちゃんの鞄もあったし、探しにきたんだけど……」
じっとアリサをまっすぐ見つめるまなざしに、アリサは言外にうっと音を心の中で出しながら、一歩後ろに引く。
すずかはそんなアリサの細かい動きに気づき、すっと動いた。
「……これ、アリサちゃんの鞄」
アリサの前に鞄を掲げるすずか。アリサがそれを受け取ると、一歩下がった。
「じゃ、わたし帰るね。また明日」
挨拶だけ残して、急いで背を向け、走り出そうとするすずか。
アリサは気づかれた。
気まずいと思ったことも、今はどんな態度で接すればいいかわからないことも。
すずかは引いた。
先ほどのことを追求することも咎めることもしないで、ただ鞄を渡してさよならを言うだけ。
また明日、と先送りにさえしてくれた。
けれどもしかしたら、明日になってもすずかから先ほどのことを聞いてくることはないだろうとさえ、アリサは思う。
それがすずかだからだ。
胸にこみ上げてくる何かに、アリサは気づいた。動く。
すずかから受け取ったばかりの鞄は床へと落として片手を自由にする。
背を向け駆け出そうとしているすずかの手を取って、戸惑う様子を無視して自分の胸へと引き込んだ。
「あ、アリサちゃん?」
すずかを背中越しに抱きしめて肩に顔を埋めるように俯く。
ケータイのライトを切って再びポケットに落としたら、埋まっていた片手も自由に使える。
「あんたって……バカよね」
「へっ? よくわかんないけど、……ひどいよアリサちゃん」
「……」
「アリサちゃん……?」
返事のないアリサに戸惑い、再び名前を呼ぶすずか。けれどアリサは変な沈黙を返すだけで。
抱きしめているすずかのぬくもりも、気負う必要のないやりとりも、アリサの胸を温かくそして鼓動を早くさせるだけのもの。
アリサは今になってようやく、理解した。
「あんなことするようなやつに近づくなって、誰かに教わらなかったわけ?」
くすくすと、少し冗談めかした声が、思いがけず上手く出た。
すずかは予想とは少し違うアリサの様子に、少しの違和感を感じつつも応じた。
「……んー、教わってないかな」
「教わらなくても、危険を感じて自己防衛するもんじゃない?」
今度は逆にすずかが笑みを零す。
「だってアリサちゃんだもの」
「……もう少し、考えて発言しないとダメよ」
「そうなの?」
「ええ、だって……」
力任せにすずかを半分ほど振り向かせ、また口づける。
今度は意識的に口づけた。すずかが倒れてしまわないよう、一応は腰に手をあてて、あいてる手はすずかの顎にあてて。
「こうやって狼が狙ってるんだから」
離して宣告した後、また口づける。すずかの息を全て奪おうとするかのように。
けれど今度はすずかもされるがままではなかった。
どすんと、アリサの鞄ではない何かが落ちる音がした後、すずかは半分ほど振り替えっていた身を、きちんと振り返らせて――アリサと向き直って、アリサの背に自分の腕を回した。抱きつくかのように。
その腕にどんな意味があるのか、アリサはわからない。
わからないから、ただ拒否はされてないと、口づけを繰り返す。
触れて、
離れて、
触れて、
離れて、
触れて、
離れて、
触れて、
離れて、
触れて……
息を吸い、角度を変え、深さを変え、ただがむしゃらに唇同士を重ねるという行為に没頭した。
「……さすがにそろそろ本当に時間がヤバイわね」
どうにか唇を離したまま、すずかを自分の胸に抱え込む形でアリサは行為を終わらせた。
「……そ、そうだね」
どもった声が胸元から聞こえて、アリサは少し不思議に思う。
ちらりとすずかの顔を見れば、見事に真っ赤に染まりあがっている。
意識してしまえば自分も同じことになるのはわかっていた。だから極力意識しないよう心がけて話す。耳に口は近づけて。
「これで懲りたら狼には近づかないように」
「……近づくもん」
「へっ?」
驚きに目を見開くアリサを尻目に、すずかは言い切る。
「アリサちゃんは、狼じゃなくて王子様だから」
「……どんな理屈よそれ」
はぁ、と思わずため息をついて、抱きしめていたすずかを離し、床に落としていた鞄を拾う。
先ほど何かが落ちる音がしていたが、それはどうやらすずかの鞄だったらしく、同種の鞄がもう一つ落ちていたのでそれも拾った。
「ほら、すずかも鞄」
鞄を差しだそうと顔を上げた時、アリサはすずかの顔を直視した。
涙が目尻にたまった顔を。
「すず……か?」
「アリサちゃんがどういう気持ちなのか、どういう考えなのかわからないけど……」
ごくりと、すずかが息を飲んだのと同じタイミングで、自然とアリサも息を飲んでいた。
「好きだよ、アリサちゃん。わたしは、アリサちゃんが好き」
すずかの表情と言葉が、アリサの胸を貫いた。
「あんたは本当に……私に隠し事とかっこつけることはさせてくれないわよね」
はぁ、とため息をあからさまについてみせる。
「へ? え、な、なに、わたし何かいけないことした?」
アリサの言葉と様子に、何かまずいことでもしたのかと、すずかが動揺し戸惑う。
その隙をつくようにアリサは二人分の鞄を片手に持って、あけた片手ですずかの手を取った。
「アリサち……」
そっとその手の甲に唇を寄せて、告げる。
薄闇の中、アリサの動きはすずかにはぼんやりとしか見えず、ただ手を握られた感触、甲に柔らかいものが触れた感触、そして――
「好きよ、すずか」
告げられた言葉だけで意識が支配される。
言ってアリサは手を離して顔を上げる。
「せめてこれくらいしないと、すずかに釣り合わないじゃない。……先に告白させるなんてさ。王子様、らしいし?」
真っ赤に染まってるだろう顔を隠すべく、アリサはすずかに背を向けた。
「えへへ」
ぎゅっと、その背中にすずかが抱きつく。
「ちょっと、すずか!?」
「アリサちゃん、大好き」
上機嫌にアリサに抱きつくすずかに、アリサはますます顔を染めあげるが、薄暗い闇の中、おそらく見られていないと自分に言い聞かせる。
「あぁもう、本当にセキュリティ入るわよ? そろそろ最終下校時間過ぎてそうだし」
「わっ、いっけない。ごめんね、アリサちゃん」
身を離して謝るすずかに、アリサは気づかれないように苦笑。
「何言ってるのよ、こんな時間まで残らせたのは私のせいでしょ?」
ほら、行くわよと声をかけて、すずかの手をつかんで駆け出す。
二時間前は、一人だけの足音が反響していた。
今は、二人の足音が静かに流れていく。
手は相手のぬくもりと握られる力を感じていた。
暗くても恐れなければいけないものは、迫り来る時間以外何もなかった。
END